ほっと湯WEB【札幌市】
 
 〇 札幌市時計台
 〇 クラーク博士居住地跡(開拓使本陣跡)

大通公園
 〇 さっぽろ・ふるさと文化百選 大通公園
 〇 さっぽろテレビ塔
 〇 
 〇 石川啄木像歌碑
 〇 吉井勇歌碑
 〇 聖恩碑
 〇 開拓紀念碑
 〇 奉仕の道

創成川公園
 〇 創成川公園施設案内図
 〇 創成川公園のアートワーク
 〇 北海道里程元標
 〇 創成橋
 〇 札幌建設の地碑
 〇 大友亀太郎像

すすきの】 別頁
グルメ】  別頁


札幌市時計台 札幌市中央区北1条西2丁目

 札幌市時計台(旧札幌農学校演武場)は、国指定重要文化財となっています。

     

     

 所在地
  

<札幌農学校用地境界標>

 「札幌農學校用地」「第九號標」

   

<明治天皇聖蹟碑>

 「明治天皇聖蹟碑」が令和3(2021)年に再建立されました。

   

(説明板)
「明治天皇聖蹟碑
 この碑は、明治14年(1881年)9月1日に明治天皇が札幌農学校(現時計台)を行啓されたことを記念し、昭和9年(1934年)9月1日に建立されたものです。当時は、時計台正門南側(現在の『写真撮影スポット』付近に配置されていました。
 昭和20年(1945年)の終戦直後、連合軍の進駐を前に撤去され、戦後の混乱を経てその所在は永らく不明でしたが、昭和末期に中島公園管理事務所で保管されているのが発見され、その後は西区の「手稲記念館」で保管されていました。
 時計台の歴史を理解する貴重な資料として、明治天皇行幸140年目となる令和3年(2021年)に再建立することとなり、76年の時を経て、元の場所である時計台に復元しました。
 碑の正面「明治天皇聖蹟碑」の揮毫は東郷平八郎、裏面の「旧札幌農学校演武場」及び側面の「明治天皇行幸明治十四年九月一日」の揮毫は、元北海道帝国大学総長佐藤昌介によるものとされています。
  参考文献:札幌市教育委委員会編『さっぽろ文庫6 時計台』(昭和53年10月発行) 札幌市」

  

<マンホール蓋>

 札幌市内で見かける時計台と鮭のマンホール蓋です。

  


クラーク博士居住地跡(開拓使本陣跡) 札幌市中央区南2条東1丁目

 創成川沿い、住友生命札幌中央ビルの前に説明板「クラーク博士居住地跡」があります。

  

(説明板)
「クラーク博士居住地跡(開拓使本陣跡)
 明治9(1876)年7月31日、W・S・クラーク博士(1826〜1886)が札幌農学校初代教頭として米国から札幌の地に赴任した。宿舎はここ南2条東1丁目にあった開拓使本陣と呼ばれる建物である。
 宿舎の役目を持つ本陣は明治5に竣工し、建築面積800余uの木造平屋建ての当時としては最大の建物であった。8年からは主にお雇い外国人用として使われ土木工学技士ホイラーなども居住していたが、12年に焼失した。
 クラーク博士は終始この本陣に居住し、ここから農学校の開校式に臨み、また建設まもないサッポロのさまざまな施設等を視察している。
 明治10年4月16日、クラーク博士は本陣前で馬上の人となり札幌に別れを告げ帰国した。
  札幌市」

  

 「本陣前で別れを告げて帰国するクラーク博士」

  


大通公園】
さっぽろ・ふるさと文化百選 大通公園

 石川啄木像の手前右側に説明板「さっぽろ・ふるさと文化百選 大通公園」が建てられています。
 大通公園は、明治4(1871)年に開拓使により官地と民地を分け、防火のための「火防線」として設けられたのが始まりです。
 現在は雪まつりの会場となるなど、札幌の顔とも言える公園です。

(説明板)
「札幌市創建120年記念
 さっぽろ・ふるさと文化百選
 大通公園
 大通公園は、明治4年(1871年)開拓使により官地と民地を分け、防火のための「火防線」として設けられたのが始まりである。明治11年(1878年)に開催された農業仮博覧会はじめ各種行事の会場としても使われた。大正時代には花壇が設けられるなど、公園として形づくられていった。戦争中は野菜畑になったこともある。戦後は雪まつりや夏まつりの会場になるなど、歴史とともに移り変わってきており、札幌の顔とも言える公園である。
  平成3年 札幌市 80」

  


さっぽろテレビ塔 札幌市中央区大通西1丁目 011-241-1131 HP

 大通公園の東端に、高さ144mの「さっぽろテレビ塔」が立っています。
 夜はライトアップされます。

   


泉 札幌市中央区大通西3丁目

 「泉」の像は、昭和34(1959)年にニッカウヰスキーの寄贈で設置されました。

 「泉 ニッカウヰスキー
  制作者 本郷新 1959」

     


石川啄木像歌碑 札幌市中央区大通西3丁目

 石川啄木が函館・札幌・小樽・釧路と漂泊の旅を続けたのは、21歳の明治40年春から翌年の春にかけてでした。
 札幌には明治40年9月の二週間滞在し、北門新報社に勤めました。
 石川啄木の七十回忌にちなんで、昭和56(1981)年に記念碑が建立されました。

    

 「石川啄木歌碑 札幌市長 板垣武四」
 「しんとして 幅廣き街の 秋の夜の 玉蜀黍の焼くるにほひよ」

  

(説明板)
「石川啄木像 歌碑
 坂坦道(1920〜1998)
 設置年1981年
 ブロンズ 高さ152 幅200 奥行100
 揮毫 中の北溟(1923〜)
 寄贈者 石川啄木記念像建立期成会
 歌人石川啄木(1886〜1912)が札幌に滞在したのは1907(明治40)年9月13日から27日までのわずか2週間でしたが、処女歌集「一握の砂」には札幌の印象を詠んだ歌が収められています。ここに刻まれているのは、その中の一首です。啄木の70回忌に合わせ、札幌在住の文学関係者と札幌観光協会によって建立されました。」

  

(銘板上)
「秋風記より
 札幌は寔に美しき北の都なり。初めて見たる我が喜びは何にか例へむ。アカシヤの並木を騒がせ、ポプラの葉を裏返して吹く風の冷たさ。札幌は秋風の国なり、木立の市なり。おほらかに静かにして人の香よりは、樹の香こそ勝りたれ。大なる田舎町なり、しめやかなる恋の多くありさうなる郷なり、詩人の住むべき都会なり。
  明治四十年作」

  

(銘板下)
「国民的歌人として知られる石川啄木が函館札幌・小樽・釧路と本道漂泊の旅をつづけたのは、二十一歳の折の明治四十年春から翌年の春にかけてであった。
 札幌には秋九月の二週間滞在し、北門新報社に勤めた。啄木の代表歌集「一握の砂」は近代詩歌史上もっとも愛唱されているが、ここに刻んだ歌には明治の札幌の心情が鮮やかに詠まれている。
 啄木は札幌を「美しき北の都」とも「住心地最もよき所」ともいったが、そのゆかりを想い、ことし七十回忌にちなんでこの記念碑を建立するものである。
  昭和五十六年九月十四日 石川啄木記念像建立期成会」

  

(碑陰)
 「石川啄木像建立協賛者御芳名」が刻まれています。

  

(参考)「石川啄木まとめ


吉井勇歌碑 札幌市中央区大通西4丁目

 右上「札幌の木 ライラック」、
 中央「家ごとに リラの花咲き札幌の 人は楽しく生きてあるらし 吉井 勇」

     

(説明板)
「吉井勇歌碑
 デザイン 小谷 博貞(1915〜2005)
 設置年 1981年
 花崗岩 高さ140 幅220 奥行き70
 寄贈者 (株)北海道銀行
 1955年に歌人吉井勇(1886〜1960)が札幌を訪れ、旅の記念に詠んだ「北遊小吟」という短歌五首の中の一首です。表面と裏面に同じ碑文が刻まれています。リラ(ライラック)は1960年に、札幌の木に選定されています。北海道銀行のシンボルフラワーでもあり、創立30周年記念として寄贈されました。」

  

(碑文)
「北国の詩情豊かな札幌は、ライラック(リラ)がよく似合う街です。昭和三十四年から大通公園を中心にさっぽろの初夏を飾るにふさわしい〈さっぽろライラックまつり〉が開かれていますし、“札幌の木”に選ばれたのはその翌年のことでした。
 すぐれた歌人の吉井勇氏が昭和三十年にこの地を訪れ、その旅の記念として「北遊小吟」五首を残しましたが、ここに刻んだ一首にはライラックを愛する札幌市民の気持ちが暖かく詠まれています。
 ライラックを行花とし、ことし三十周年を迎えた北海道銀行のご厚志によりこの歌碑の建立をみましたことを、市民とともに心から喜ぶものです。
  碑名の揮毫 板垣武四(札幌市長)
  デザイン 小谷博貞(美術家)
  昭和五十六年五月二十九日 札幌市」

  


聖恩碑 札幌市中央区大通西5丁目

 明治・大正・昭和の三代天皇の聖恩に感謝する碑として、昭和14年に建立された聖恩碑です。
 また、札幌市の水道事業完成記念の一貫として四隅に水飲台が整備されました。

(正面)「聖恩無彊」

   


開拓紀念碑 札幌市中央区大通西6丁目

 中央「開拓紀念碑」
 右側面「明治十九年九月建之」

   

(説明板)
「開拓紀念碑
題字 王 義之(303〜361)
拓字 奥並継(北海道開拓使官吏)
設置年 1886年 移設 1901年
安山岩 高さ 21尺8寸5分 地盤 10尺8寸
 大通公園で最も古い記念碑です。1882(明治15)年に開拓使が廃止された後、札幌神社の宮司らが中心となって募金を集め、1886(明治19)年に偕楽園内(現在の北7条西7丁目付近)に建立されました。1901(明治34)年に台座の補修を兼ねて、公的土地である現在の場所に移設されました。題字は中国の書聖・王義之の書から5文字を拾い、刻まれたものです。開拓紀念碑の紀の文字は勅選または国家の公式の記録として制作された場合に使われます。」

  


奉仕の道 札幌市中央区大通西6丁目

   

(説明板)
「奉仕の道
 峯孝(1913〜2003)
 設置年1982年
 ブロンズ 高さ82 幅100 奥行100
 寄贈者 札幌ロータリークラブ
 エゾフクロウの言葉に、エゾシカ、ハシブトカラス、エゾウサギが耳を傾けています。台座に刻まれているロータリークラブ会員の行動基準を、北国の動物たちの姿を借りて表現したものです。札幌ロータリークラブが50周年記念として建立しました。」

  

(銘板)
「奉仕の道
 峯孝(1913-2003 武蔵野美術大学教授)作
 「四つのテスト」(職業道徳向上のための国際ロータリ行動規準:台座に記載)について話し合う北国の動物たち
 札幌ロータリークラブ創立50周年記念寄贈 1982」

  


創成川公園】

 創成川公園は、札幌中心部を流れる創成川の両岸に整備された公園です。

   

 「創成川公園施設案内図」「創成川通整備 受賞実績」

   

 「創成川公園のアートワーク」

  

 O「天秘 安田侃 2010」
   

 P「生棒 安田侃 2010」
   


北海道里程元標 札幌市中央区南1条東1丁目

 正面「北海道里程元標」
 西面「篠路驛 三里拾丁弐拾間 錢函驛 五里拾丁三拾間」
 東面「對雁驛 四里拾六丁五拾三間 島松驛 五里弐拾七丁四拾五間」
 裏面「平成二十三年三月 再建」

    

(碑文)
「北海道里程元標
 北海道里程元標は、明治六年の太政官布告により、北海道の道路の起点であることを示すため、創成橋の東袂であるこの地に置かれた。正面となる南面には北海道里程元標の標記、北面には設置年月日が記され、東西面には、駅等の交通の要所に設置される里程標までの距離が記載されていた。当時の標柱はヒノキ又はトドマツ製で一尺角(約30センチメートル)、高さが一丈三尺(約363センチメートル)あり、高層建築物が無かった頃、遠方からでもその存在が容易に確認でき、明治時代の北海道開拓に際し、人々の往来や物流を支え、陸路の標として活躍したであろうと思われる。
 その後、大正八年に旧道路法が制定され、道路の起点を表す標柱は道路元標へと変わり、設置場所も北三条西六丁目の北海道庁前へと移り、木製の里程元標の行方は不明である。
 ここに建立した標柱は、北海道開拓の起点としてのこの場所の存在を、創成橋とともに後世に伝えるため再建したものである。再建にあたり、当時の記録が存在していない西面の里程の記載については、文献や地図を参考に推察し復元した。
  平成二十三年三月 札幌市」

  


創成橋 札幌市中央区南2条東1丁目 〜南1条西1丁目

 「創成橋」「平成二十二年三月復元」

     

 「土木學會選奨土木遺産
  2010 創成橋」

  

(碑文)
「創成橋の復元
 ここに架かる創成橋は、
 「技術を守る」
 「形を守る」
 「材料を守る」
 「その場所を守る」
 これらのことを基本的な考えとして、建設当時の姿を復元したものである。
 創成橋は、明治四十三年に架橋され、札幌市内に現存する最も古い橋梁であった。特筆すべきは、石造アーチ橋でありながら石材の目地間や橋台部からアーチ石上部にかけてコンクリートが充填されているという希少な構造形式であり、石造アーチ橋から鉄筋コンクリートアーチ橋へと進化していく技術史の中で、その橋渡し的役割を担ったであろうと思われる。以後、百年間にわたり札幌市の中心部で人々の東西の往来を支え続けてきた。
 平成十八年、創成トンネルの建設により解体を余儀なくされたが、その歴史的価値に鑑み、往時の姿で復元されることとなった。復元工事にあたっては、解体の過程や文献調査によって明らかになった先人たちの技術を、現代の技術者たちの手によって再現し、可能な限り建設当時の施工方法となるように努めた。アーチという構造上、僅かな誤差も許されない精密な施工が必要とされたが、関係者の尽力により無事しゅん工することができた。
 この工事に係わった全ての技術者に敬意を表し、併せて、復元した創成橋が再び札幌のまちづくりの基となり、その歴史と技術を後世に継承されることを祈念する。
  平成二十三年三月 札幌市」

   

〇創成橋周辺の歴史

   

「札幌建設の地」碑

 「北海道里程元標」の北側に「札幌建設の地」碑があります。

(台座)
「札幌建設の地 札幌市長 原田與作
 この地は 銭凾から千歳に抜ける道と藻岩山麓を通り篠路に行く道路との交叉点に當り 明治貮年拾壹月拾日開拓判官島義勇石狩大府の建設をこの地から始め その志をついだ岩村判官は同四年参月札幌の町割をこゝを中心として行い 民家を建てることを許した 今日の札幌市は この附近を基点として發達したのである」

   


大友亀太郎像 札幌市中央区南1条西1丁目

 大友亀太郎像の向かって右側には、
 かつての石造の創成橋の欄干の一部と、橋が架けられたときの車止めが保存されています。

 大友亀太郎
  天保5年4月27日(1834年6月4日)〜明治30(1897)年12月14日

   

(碑文)
「札幌の先駆者・大友亀太郎は、天保五年(一八三四)に現在の神奈川県小田原市で生れた。二宮尊徳の門に学び「人の一生は金銀財宝に富めるにあらず、積善の道に如かず」を信念とした。安政五年(一八五八)に渡道し、慶応二年(一八六六)には箱館奉行に蝦夷地開墾の計画を提出するととともに石狩地方開拓の命を受け、札幌市東区(旧・元村)に土地を選んで開墾し、札幌の街づくりの発端となった。明治二年(一八六九)これを開拓使に引き継ぎ、翌三年、札幌を去った。亀太郎が掘った大友堀は 今日の創成川の基となって街の中心部を流れ続けている。
  昭和六十一年五月
    制作者 農民彫刻家 松田与一
    題字 札幌市長 板垣武四
    大友亀太郎像建立実行委員会 委員長 清水利信
    [財団法人北海道報徳社社長理事]」

  


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