薄野は、明治4(1871)年、開拓労務者の足止め策として薄野遊郭を置いたのが起源です。
明治4(1871)年に開拓使に赴任した岩村通俊は札幌市街地南端の薄野に土塁を築いて、遊郭を造成しました。
9月3日に開業した妓楼は粗末なもので、これを見た岩井通俊は翌年、妓楼「東京楼」を官費で建て、遊女たちを東京から呼び寄せました。
薄野の名前の由来については、工事監事を務めた薄井龍之氏の姓にちなんで名付けられたという説と、
当時この一帯がススキに覆われていたからという説があります。
大正9(1920)年に遊郭は白石村菊水に移転となり、遊郭跡には飲食店が立ち並び現在のススキノ発展の基礎となりました。
「岩村通俊肖像」(「Wikipedia」及び「鹿児島県史」)
天保11年6月10日(1840年7月8日)〜大正4(1915)年2月20日)
すすきの交差点のすすきのビルに巨大な「ニッカウヰスキー」のネオン看板があります。
所在地
【パブリックアート】
〇花吹雪 札幌市中央区南4条西5丁目1
北村西望氏による作品「花吹雪」です。
(銘板)
「彫刻「花吹雪」に題して
一年の蓄積を見事に表現してまさに絢爛無比我々を喜ばせてくれる山桜
それで毎年々々その約束を違えた事もない
そうして心地よい春風に乗ってたちまち豪華な舞踏をくりひろげ
打ちよする波涛の如く又吹雪の如く僕はふと
天女の舞姿を見出す事が出来た
おゝ天使よ春や春
北村西望」
「おだやかな直立 1993年 山谷圭司」
「あっちこっち 1994 松隈康夫」
「寄贈 (社)すすきの観光協会」
「球の記憶 1997 丸山隆」
「MEMORY 1993 永野光一」
「やすらかな傾き 1994 山谷圭司」
薄野は明治四年、開拓労務者の足止め策として薄野遊郭を置いたのが起源です。
その開拓を支えた遊郭の娼妓達を供養し、さらに水子の霊を慰める目的で「薄野娼妓並水子哀悼碑」が建立されています。
(説明板)
「豊川稲荷札幌別院 略縁起
愛知県豊川市曹洞宗妙厳寺は、ご本尊に、寒巌義尹禅師伝来の千手観音を安置し、鎮守として禅師御感見の善神「豊川ダ枳尼真天」を祀る。
この善神は通称「豊川稲荷」と呼ばれ、その起りは、七百数十年の昔、文永元年、寒巌禅師入宗求法をおえ、帰国の為ご乗船の際、海上にて忽ち霊神現じ、妙相端麗にして稲穂を荷い、手に宝珠を捧げ、白狐に跨るお姿を御神示あり、禅師は深く感動せられ、帰国後示現のお姿を自ら刻み、守護神として祀られる。
これより代々相伝せられ、東海義易禅師により豊川の地に、円福山妙厳寺を開創と共に鎮座し、東海地方の名刹となる。因みに「豊川ダ枳尼真天」現じ給える時の御神示の中に真言あり「オン尸羅婆陀尼黎吽娑婆訶(オンシラバッタニリウンソワカ
)」と申す。
之を要約すれば、“正しい戒力により、悪事災難を除き、福徳智慧を得て苦を抜いて楽となし、悲しみ転じて喜びとなすことが必ず成就する”という意味である。
その分霊は、全国至る所に祀られており、当院は明治三十一年に別院として開創され、以来幾多の霊験を現じ今日に至る。<稲荷縁日毎月二十二日>
尚、一階には、清田区北野にある「曹洞宗 玉宝禅寺」の祖院として、仏事全般を司っている。
平成八年秋 大祭記念 院代 修導記」
<丸山定山句碑>
「是ほどと 指を真似たる 牡丹か那」
句の下には丸山定山の来歴が刻まれています。
<薄野娼妓並水子哀悼碑>
(説明板)
「「薄野娼妓並びに水子哀悼碑」建立のいわれ
薄野は明治四年、当時の判官により開拓労務者の“足止め策”として薄野遊郭を置いたのが起源であります。
その開拓を支えた遊郭の娼妓達を供養し、さらにはその陰にある水子と、現代の水子(見ず子)の霊を慰める目的で北海道知事、堂垣内尚弘氏から碑文を頂き建立したのが、この哀悼碑であります。
昭和五十一年五月二十五日記 薄野花街哀悼碑建立期成会 合掌」
<すすきの稲荷大明神>
<観音像>
<すすきの七福神>
<本殿>
1階がお寺(玉宝禅寺祖院)、2階は神社(豊川稲荷別院)となっています。
〇洋画家・三岸好太郎生誕地
(説明板)
「洋画家・三岸好太郎生誕地
明治三十六(一九〇三)年四月十八日にここ南七条西四丁目の一角で生まれた。札幌一中(現南高)卒業後上京して第一回春陽会展に入選し、のち独立美術協会の創設に参加する。
天才的な感覚で次々と作風を変え、とくに死の直前の蝶と貝による幻想的な光景など、日本前衛絵画の先駆者として果たした役割は大きい。
昭和九年(一九三四)七月一日旅先の名古屋で急死した。三一歳だった。女流画家の三岸節子は夫人。道立三岸好太郎美術館(北二西一五)がある。
厚田村で生まれた時代小説家の子母沢寛(明二五〜昭四三)は異父兄にあたり、私立北海中学に学ぶなど札幌とも縁が深い。」
<大師堂/諸尊堂>
大師堂は、弘法大師空海と興教大師覚鑁をお祀りしています。
<修行大師>
<倶利伽羅剣>
昭和26年8月の奉納です。
<愛染明王>
(説明板)
「愛染明王
愛染明王は、真言密教の愛欲・煩悩をつかさどる仏身で、古くから女性や特に水商売の方々の信仰を集め、後に名前の響きから染物関係者の信仰対象ともなりました。
建立 昭和五年十月(円山西町 滝の不動)
移設 昭和五十五年十月(現在地 成田山新栄寺)
札幌染洗工業組合」
<木遣塚>
「札幌鳶旭組」(現在の札幌地区鳶土工工事業組合)
「大正十年十一月建之 昭和三八年九月改築建之」
<針塚>
札幌和服裁縫組合が昭和63年7月に建立しています。
<頌徳碑>
「頌徳碑
奉詠讃佛歌大和流々祖山崎先生」
「敷石喜捨人名」(明治24年9月)
「故北海道廰巡査志賀粂次郎之碑」(大正7年9月)
「會長齋藤惣次郎君頌徳碑」(明治45年3月)
「故柏谷万吉之記念碑」(明治26年9月13日没)
「故谷太夫紀念碑」(明治30年10月)
「井之上富之助碑」(明治36年1月)
「故豊竹玉光齋之碑」(明治31年10月28日歿)
新渡戸稲造が設立した「札幌遠友夜学校」の記念館を建設する計画を支援するため、
北海道コカ・コーラボトリングは募金型自動販売機を設置しています。
「I wish to be a bridge across the Pacific
願わくは、われ太平洋の橋とならん ー新渡戸稲造」
「新渡戸稲造肖像」(国立国会図書館「近代日本人の肖像」)
文久2年8月8日〜昭和8年10月15日(1862年9月1日〜1933年10月15日)
豊平川の水を引き込んで流れる創成川の上流区域は、鴨々川と呼ばれています。
中央区南10条西2丁目は、札幌パークホテルの東側、3本の道路に囲まれた小さな三角緑地で、そこに石碑が建てられています。
碑文には大正10(1921)年1月との記銘がありますが、建立されたのは昭和4(1929)年11月です。
碑文は、総理大臣原敬、題字は、元総理西園寺公望によるものです。
碑の裏面に刻まれている木下成太郎は木下弥八郎の長男で、立憲政友会では衆議院議員として原敬を支え、
北海道の開拓事業に関しても、大きな役割を果たしました。
木下弥八郎は北海道開拓に尽力しましたが札幌に住んだことはなく札幌とは無縁の人物ですが、
長男の成太郎が晩年に札幌市に住み、札幌の自宅前の市有地に「木下弥八郎君之碑」を建てました。
木下弥八郎 文政9(1826)年11月〜明治38(1905)年10月30日
木下成太郎 慶応元年8月2日(1865年9月21日)〜昭和17(1942)年11月13日