○ 重監房資料館
〇 リーかあさま記念館
〇 コンウォール・リー女史墓所
〇 コンウォール・リー頌徳公園
「重監房資料館」では、草津温泉とハンセン病について見学無料で学べます。
なお、湯畑右岸一番手前の7本目は、国立療養所栗生楽泉園に引かれているものです。
知っている人が戦後ここで活動されていたので聞いてみたけど痕跡なし。
草津聖公会霊園(草津町営滝尻ヶ原墓苑)に、コンウォール・リー女史の墓所があります。
「コンウォールリー女史墓所入口」の石柱から奥に入ります。
墓碑「我は輝く曙の明星」があります。
(銘板)
「ミスコンウオール・リー教母は(一八五七年一九四一年)英国に生まれ病者の救済に私財を投じ献身されキリストの愛を證詞されたリー教母の遺骨は遺言により多くの信徒と共にここに納骨されている」
コンウォール・リー頌徳公園に「リー女史記念碑」「メアリヘレナコンウォールリー女史像」「説明板」が設置されています。
<リー女史記念碑>
「昭和十六年五月二十日」
<メアリヘレナコンウォールリー女史像>
(説明板)
「コンウォール・リー女史顕彰碑
コンウォール・リー女史は一八五七年英国カンタベリーの貴族の一人娘として生まれ、最高学府に学び、熱心なキリスト信者として成長した。両親の死後、憧れの美しい国
日本でキリスト教伝導に生涯を捧げようと、五十一歳のとき単身来日、日本聖公会の宣教師として東京、横浜方面で伝導にあたっていた。
当時、草津温泉湯川沿いにあった湯ノ沢部落に、病気を温泉で治そうと全国から多数のハンセン氏病患者が集まっていたが、彼らの生活は荒れ果て苦悩に包まれていた。彼らはリー女史に救いを求めた。
リー女史はこの哀れな病人たちに生涯を捧げようと、一九一六年(大正五)四月、湯之沢に自ら住所を移して、まず聖バルナバ医院を建て、男子ホーム、女子ホーム、家族ホーム、児童ホーム、学校、幼稚園など次々に建てて、病人に医療を施し、生活を保障し、教育を行った。すさんだ病人たちもリー女史を「母さん」と慕うようになり、洗礼をうけた者千人を超えたという。リー女史は両親が残した膨大な遺産のすべてを、病人たちのために使い果たし、一九四一年(昭和一六)八十四歳の生涯を終えられた。
リー女史の遺骨は草津聖バルナバ教会墓地に病人たちの墓に囲まれて眠っている。
尚この頌徳公園は、リー女史が病人たちのために作り、のちに町に寄付されたものである。
草津町教育委員会 草津温泉観光協会」
聖バルバナ医院の創建に貢献した松本留吉(藤倉電線社長)の功徳を称える「頌徳碑」があります。
<糸巻き>
句碑「糸巻きに貸す手は妻と向い合い」
目立つ句碑なので記録しましたが、由来等わかりません。