※2025年2月中旬より設備故障により休業、再開の見込みなく2025年3月7日をもって閉館しました。
<煙突>
マンションに煙突です。
<入口>
鎌倉道に面して八幡湯はあります。
鎌倉道を荏原駅に向かうと、右手に旗岡八幡神社、その先に法蓮寺があります。
1階は下足箱、浴室は半地下で階段を下ります。
階段右手に分析書等が掲示されています。
<分析書>(平成31年3月26日分析)
源泉名「健康ランド八幡温泉」
泉温16.2℃ pH8.5 湧出量150L 成分統計0.649g 腐植質(有機物)10mg未満
炭酸水素イオン395.3mg
知覚的試験 弱黄褐色透明無味無臭
メタけい酸及び重炭酸そうだの項で温泉に適合
<影響を与える項目>
「開店時のみ加水(熱湯)
温度調整のため加温
塩素系薬剤を使用」
分析書パネルの後ろに隠れていて、よく見えません。
<脱衣所>
ここから先は、撮影禁止の掲示があったので、文章のみです。
脱衣所と浴室の仕切りのガラス板6枚に、海の中の光景中、亀に乗った子どもと足のある人魚?が
描かれています。
ドライヤーが1台あり、無料です。
<浴室>
浴室の壁は葛飾北斎「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」モザイクタイルです。
ケロリン桶です。
ボディーソープ、シャンプー備え付けです。
<森林浴風呂&黒湯>
温泉はここで使用しています。
源泉蛇口あり。ケロリン桶にすくうと、ケロリンの文字がはっきり見える透明度です。
コロナ対策で、入口扉が外されています。
湯舟は2人用に仕切られていて、2人で満員。空くまで待ちました。
腐植質10mg未満で、加湯ありですが、透明度40〜50cmの黒褐色です。
「御注意下さい 設定温度以下になると、ここから熱めの湯が出ます」
循環ろ過はないようです。
「江戸名所図会 中延八幡宮 法蓮寺」
江戸名所図会に、中延八幡宮(旗岡八幡神社)と法蓮寺が描かれています。
<旗岡八幡神社と鎌倉道>
神社の前の道は、鎌倉道です。「しながわ百景 80」に選定されています。
<旗岡八幡神社由緒>
(説明板)
「旗岡八幡神社由緒
御祭神 応神天皇 比亮大神 神功皇后
当神社は長元三年(一〇三〇年)忠常の乱を平定すべく朝命を奉じた甲斐守源頼信公が、下総へ赴く際この地に宿営した折霊威を感得して源氏の氏神たる八幡大神を奉齋し戦勝を祈願したのがその発祥とされています。
高台に陣を敷き源氏の白幡を立て大いに武威を誇ったことから、この地が「旗岡」あるいは「旗の台」と呼ばれたのです。
鎌倉時代中期に荏原左衛門尉義宗公が当地の領主となり鎮守としての御神徳の発揚に努めたことが当神社発展の基礎となりました。
江戸時代には、徳川家を始め武家の崇敬篤く毎年二月十五日には各地から集まった武士達により弓の競射が行われていました。
当神社は創建以来千年近い歴史を歩んでまいりましたが時移り時代が変わっても常に氏子崇敬者の心の拠り所として親しまれ敬われて今日に至っております。」
<茅の輪>
茅の輪は、八の字にくぐります。
<境内>
横にも鳥居。手水には、紫陽花が浮かべられています。初めて見た、風流です。
戦災で社殿を焼失し、昭和39(1964)年に再建されました。
「神楽殿」「高橋翁頌徳碑」「耕地整理記念碑」
御輿庫には真新しい立派な御輿があります。
<絵馬殿>
「絵馬殿」は、国登録有形文化財です。
「大絵馬(1864)」(品川区指定文化財)は、社務所2階に展示しているとのことです。
(説明板)
「品川区指定有形文化財 旗岡八幡神社大絵馬 (一面)
所在 旗の台三丁目六番十二号
指定 昭和五十三年十一月二十二日(絵画第一号)
絵馬殿に懸けられていた縦一・四六メートル横一・七メートルの庵形の大絵馬である。
元治元年(一八六四)に中延村の竹屋(野村)吉治郎が奉納したもので、欅の板四枚を横に合わせ、周囲を同じ欅材で縁取っている。
白木の生地に猿駒止の図柄を彩色で画面一杯に画いている。
この絵は右下の落款によって、今治(愛媛県)出身の画家、沖冠岳(一八一七〜一八七六)の作品であることがわかる。沖冠岳は、京都で岸派に学んだ後、江戸に移住し、谷文兆等と交流し、画風の幅を広げている。
江戸期の大絵馬の現存例は、本区並びに周辺地区では少なく、民間信仰の様相を示す資料として貴重である。
大絵馬は現在、ケースに収められ、社務所内に展示されている。
平成二十一年三月十一日 品川区教育委員会」
隣接する「旗岡八幡神社」の別当寺だった寺院です。
「しながわ百景 81」に選ばれています。
(説明板)
「将軍家斉と法蓮寺住職との角力伝承
ここ法蓮寺には、徳川十一代将軍家斉と当時の住職日詮上人が角力を取ったという伝承があります。
家斉は品川か目黒筋への鷹狩の途中、中延八幡宮(今の旗岡八幡神社)に立ち寄られたという。そのとき別当寺であったここ法蓮寺の芝庭において、家斉は法蓮寺三十九世住職の日詮と角力を取ったとされこのとき日詮上人は手加減せずに将軍を負かしたのでかえって賞されたというお話です。
江戸幕府 が編さんした歴史書『徳川実記』の中には家斉が寛政から文政年間(江戸時代後期)にかけて幾度か品川周辺で鷹狩を行ったと書かれています。
平成十九年二月一日 品川区教育委員会」
<荏原町駅>
荏原町駅が面前です。