ほっと湯WEB【神奈川】
 
 川崎市川崎区
 
 【銭湯】
  ○ 中島湯(閉館)
  〇 政之湯 別頁
  〇 日の出おふろセンター 別頁

 【歴史スポット】
  ○ 中島八幡神社
    ・正岡子規句碑
  ○ 稲毛神社
    ・正岡子規句碑
    ・芭蕉句碑
  ○ 旧六郷橋親柱(稲毛公園)


中島湯 川崎市川崎区中島2-7-13 044-245-8951 5:00-24:00 定休日:原則7のつく日

 ※2024年2月18日、閉館しました。
     
 旧中島村の地名から中島湯と命名しているかと思います。
 早朝5時開店の24時までの通し営業です。
 併設のコインランドリーも朝5時から営業です。

 下足箱は松竹鍵。
 券売機でチケットを購入し、フロントで下足札とロッカーの鍵を引き換えます。

<源泉名>

 源泉名「中島温泉」ナトリウム-塩化物冷鉱泉(低張性弱アルカリ性冷鉱泉)
 フロント上に掲示の分析書は昭和63年ですが、別表は令和元年の真新しいもの。
 令和元年の分析書は別表しか見あたらず残念。
 「加水、加温、ヘアキャッチャー使用、塩素」

<浴室>

 内湯のほか、半露天風呂(人工北投石)があります。
 内湯の天然温泉浴槽は、広めでぬるめで心地よい。
 浴槽の外から見ると真っ黒ですが、湯舟内、淡褐色で、手を湯底に沈めるとうっすら手の甲が見えます。
 腐植質8.0mgなのでもうちょっと黒いはずでしょうが、加水の影響でしょう。
 桶はケロリン。
 半露天風呂(人工北投石)は、塩素臭がします。

     

     

    


中島八幡神社 川崎市川崎区中島2-15-1

 中島湯の近く、中島村の鎮守として祀られてきた八幡神社へ、正岡子規の句碑を見に行く。
 八幡神社は稲毛神社の兼務社となっています。

    

<庚申堂>

 祠内には、元禄10(1697)年に造立の庚申塔が祀られています。

   

<正岡子規句碑>

 「多摩川を汽車で通るや梨の花」
  明治25(1892)年春、大師に詣でた時に詠んだ句です。
 正岡子規没後百年を記念して建てられています(2002年)。

     

   

 他にも句を残しています。
  川崎や 畠は梨の かえり花
  行く秋に 梨並べたる 在所かな
  川崎や 梨を食い居る 旅の人
  川崎や 小店々々の 梨の山
  すずなりの 小梨に村の 曇り空
  麦荒れて 梨の花咲く 畠哉
  落第の 人を送るや 梨の花
  灯の映る 閨の小窓や 梨の花
  駅古りて 夜長の鶏の まばらなり

   

「三十六花撰 東都六郷梨子」(二代広重)

 六郷は梨の名所でした。

  


稲毛神社 川崎市川崎区宮本町7-7 HP
 
<正岡子規没後100年記念句碑>

 正岡子規の没後百年に当たり、平成14(2002)年9月19日に建てられました。

 句碑「六郷の 橋まで来たり 春の風 子規」

(銘板冒頭)
「正岡子規没後百年記念句碑建立誌
 本年は近代の俳聖正岡子規の没後百年に当る また野球の普及に貢献した事から野球殿堂入りした記念すべき年でもある(以下略)」

    

   

「江戸名所図会 河崎山王社」

 江戸名所図会に河崎山王社が描かれています。
 現在の稲毛神社の明治維新前の神社名です。
 参道、神木銀杏と、現在と同じ配置です。

  

 「参道」「堀田稲荷神社/第六天神社」「大銀杏」「小土呂橋遺構」

     

(説明板)
「史跡東海道川崎宿 稲毛神社
当社は明治維新まで「山王社」といわれた。鎮座地の「堀の内」は、この付近を開発し「川崎荘」とした在地武士の館跡と推定される地名であり、当社も同荘の鎮守として勧請されたものとみられる。
中世における当社の推移は定かでないが、応永11年(一四〇四)に大般若経書写奉納の動きがあった。近世初頭、伊奈氏による備前検地をうけ、20石の朱印を安堵され、以降川崎宿の惣鎮守として、人々は事あるごとに当社へ詣で地域の精神的紐帶となった。
8月の例祭は宮座の制を残す古式なものである。
  川崎市」

     
   
<芭蕉句碑>

 「秋十とせ 却って江戸を さす故郷 芭蕉
  芭蕉没後三百年 圓鍔 勝三書」

  

<惣之助の詩>

 旧川崎宿の本陣佐藤家に生まれ育った詩人佐藤惣之助の詩碑で、「祭の日」の一節が刻まれています。
 佐藤惣之助の生誕百年の平成2(1990)年12月3日に建立されました。

  

<和嶋弁財天と曲水連歌碑>

 「桜かげうつる和嶋の水の面は 音なき花の浪ぞよりくる
   弘化4(1848)年」

 「おのづから花の光し妙なれば 朧月夜もおもしろきかな
   岩田専永 年代不詳

    

<御神水吹上井戸石枠>

   


旧六郷橋親柱 川崎市川崎区宮本町7-8 稲毛公園内

(銘板)
「旧六郷橋親柱再現整備の由来
 徳川家康は、東海道に宿駅伝馬制度を敷く前年の一六〇〇年(慶長五年)に六郷大橋を架け、以来再三に亘る修復や架け直しが行われたが、一六八八年(貞享五年)の大洪水で流された後は、明治に入るまで架橋することなく渡船場が設けられ、船で川を往来するようになった。
 明治に入って以降、一八七四年(明治七年)左内橋、一八八三年(明治十六年)に六郷橋が架けられたがいずれも大洪水で流出した。
 旧六郷橋は近代化が進む時代に即応した陸上輸送の強化を目的に「陸路の帝都の門」として一九二五年(大正十四年)鉄構造のタイドアーチ型橋梁として架けられた。その後、一九八四年(昭和五十九年)に現在の橋に架け替えられるまでの約六十年間、第一京浜国道(一般国道十五号)のランドマークとして活躍してきた。
 こうした歴史と役割を果たしてきた旧六郷橋は、川崎の隆盛を築き、偉大な功績を残した。また、その親柱は、優美な姿で旧六郷橋の川崎側橋詰に鎮座し道行く人々に親しまれてきた。
 輝かしい二十一世紀に入り、川崎区誕生三十年を迎えた機会に、住民の発意と川崎商工会議所、国土交通省、川崎市の尽力によって、その親柱一対を近代化遺産に位置付け、住民によるまちづくりのシンボルとして幾久しく保存活用されることを祈念して、ここに再現整備する。
  二〇〇二年(平成十四年)十一月月十六日
  旧六郷橋親柱再現整備実行委員会」

   

「江戸名所図会 六郷渡場」

 手前が六郷で、向こう岸が川崎です。

  

「東海道五拾三次 川崎・六郷渡舟」(広重)

 六郷川を渡って川崎宿に向かう渡舟が描かれています。
 岸には舟を待っている乗客が見えます。右手には富士が見えます。

  

「英泉江戸名所 六郷渡」(英泉)

  

東海道六郷渡風景」(五雲亭貞秀)

 14代将軍徳川家茂が京都から帰還して、六郷川(多摩川)の「六郷の渡し」を渡る光景が描かれています。
 供奉は3000人に及び、これだけの人数が渡っている光景は圧巻です。
 船に乗っている「御大将」と描かれた人物が将軍徳川家茂です。
 船に随伴する2隻の船には、多くの槍が立てられています。
 弓隊が陸を離れたところで、多くの鉄砲隊が船に乗り込もうとしています。
 鉄砲隊のうしろには、これまた多くの弓隊が見えます。
 将軍の白馬も行列に続いています。

    

「六郷蒸氣車鉄道之圖」(昇齋一景 明治4(1871)年)

 蒸気鉄道と渡し船の時代です。鉄橋を自転車で渡る人々も見えます。畑では大根を収穫しています。

    


戻る