○ 小田原温泉
○ 湯遊び処 箱根の湯
○ 太閤石風呂/太閤の滝
○ 宮の下浴場組合 太閤の湯
○ 函嶺(淀君の湯)
○ 木賀湯滝温泉源泉地(ベルツの別荘跡)
○ 箱根高原ホテル
〇 箱根越え
※2024年8月1日、休業となりました。
年季の入った日帰りのみの施設です。
看板「小田原温泉」の小の文字が小さいので、「田原温泉」に見えます。
玄関は、引き戸かと思ったら、自動で開いたのでちょっと驚き。
初めてですかと聞かれ、初めてと答えたのに、あまり説明がなかったので、
帰りにゆっくりとお話を聞きました。
浴室に行く途中の右手には、昔ながらの洗面所です。
浴室の前でスリッパを脱ぎます。
浴室前のスリッパの数で混雑度がわかります。
浴室に入ると、ドライヤーはありませんが、家庭用洗面台にコンセントがあります。
持ち込みドライヤーの電気代使用料は100円です。
浴室内に固形石鹸しかないので、みなさん、シャンプー類は持ってきていますが、ドライヤー持ってきている人はいませんね。
源泉名「小田原温泉 源泉名; 」(源泉名は、空白です。)
台帳番号 小田原第4号。泉温25.4℃。
pH8.4 成分総計0.367g/kg。単純温泉。
加熱源泉を常時投入の完全放流、加水なし、循環ろ過なし、塩素なし。
湯の鮮度が良好に保たれています。
加熱源泉は、ライオン湯口ではなく、隣のパイプから勢いよく投入されています。
ライオンの上にコップがあり、飲泉可。カランの湯も源泉なので、こっちを飲みました。
比較的ぬるめで、ゆっくりと湯につかれます。
洗い場の蛇口の源泉は、浴槽の湯口と連動しているようで、カラン使っている人多いと湯口の湯量が減ります。
燃料費を考えると、大変だなあと思います。
女将さんによると、客が来ても来なくても燃料費はかかるので、
客が少ないと赤字で、経営に苦労するとのことです。
靴の中に、おせんべいが入っていました。
女将さんからのサービスのお菓子で、いつもあるわけではなく、
お菓子があるときだけのサービスとのことでした。
話好きな女将さんの話は聞いていて飽きないです。
平成12年にオープンした「湯の里おかだグループ」の日帰り温泉施設です。
2階建ての女子寮(アパート)を改造した建物で、
一般的な日帰り温泉施設をイメージしていたので、到着して意表をつかれました。
アパートの2階が有料個室休憩室となっています。
源泉名「湯本 123号・126号混合」
ナトリウム・カルシウム?塩化物・硫酸塩泉・弱アルカリ性・低張性高温泉
源泉 61.6℃ 浴槽 42.0℃ pH:8.07
影響事項「加水、循環ろ過、塩素」常時源泉は投入。
【内湯】(1つ)
浴槽の両端から洗い場方面へオーバーフロー。
洗い場の数が9つと少なめ。
【露天】
隣接する伊東園ホテルの客室から見えないように
板で多くが覆われています。
打たせ湯の向こう側に貯湯タンクが見えます。
かけ湯と冷水機が、意外にも露天ゾーンにあります。
内湯が手狭なためでしょう。
・冷水機
「この水は白銀山(しろがねやま)からの地下水です」の掲示があります。
・かけ湯
源泉です。頭からかぶりました。
・打たせ湯
豪快に落ちてきていますが、オーバーフローの量よりかなり多く、
すぐ横の湯口から源泉らしきものが投入されているので、
打たせ湯は循環分と思います(たぶん)。
脱衣室所が狭く、壁にドライヤーがセットされています。
〇弥坂湯 箱根町湯本577 0460-85-5233
共同浴場です。
「箱根七湯図会 湯もと」(広重)
早川と須雲川との合流地点に位置する湯本の温泉場が描かれています。
(説明板)
「太閤石風呂のいわれ
天正十八年(一五九〇)豊臣秀吉は小田原城攻略のため三島から東進し先ず北条方の堅陣山中城を次いで宮城野城、鷹の巣城を抜いて同年四月遂に小田原を見下ろす石垣城に四万人の人足を動員して一夜城を築きました。それまで北で洞が峠を決めこんでいた伊達政宗は怒りにふれ暫らく当地に蟄居を命じられておりました。又ニヶ月の築城の間箱根底倉の地に石風呂(太閣の石風呂として現存)を作り将兵の戦傷をいやし無聊を慰めたと伝えられます。
五月十八日秀吉は伊達政宗の帰順を祝うため徳川家康や淀君をはじめ数多の武将を引連れて新緑と山つつじに映えるこの地に盛大な宴を催しました。
相模風土記に拠る
宮ノ下温泉 宮ノ下観光協会」
「太閤石風呂図」(箱根七湯栞)
江戸時代の「箱根七湯栞」に、太閤石風呂の図が掲載されています。
「底倉の全図(箱根七湯栞)
梅屋、蔦屋、万屋、住吉屋と宿場が記されています。
挿絵に「石風呂道」が見えます。石風呂は、江戸時代も名所だったことが伺えます。
「箱根七湯図会 底倉」(広重)
箱根温泉郷の7つの温泉が描かれているうちの「底倉温泉」です。
「底倉温泉」は古くから痔疾に効く温泉として知られていました。
特に江戸時代には、多くの陰間が湯治に訪れたとされています。
「箱根底倉萬年橋」(小林清親)
早川の支流蛇骨川に架かる萬年橋を描いた作品です。
<箱根底倉温泉と陰間>
江戸の芳町(現在の日本橋人形町)には陰間茶屋が多くありました。
その芳町の陰間たちは、痔の温泉療養のため底倉温泉を訪れました。
陰間は京ことばを話すのが特徴でした。
江戸時代、箱根の底倉で湯治するのは皆男色とも言われていました。
<江戸川柳>
「底倉へ菊の療治に痔童来る」
「底倉で見た芳町の美少年」
「底倉で鋳掛けて元の釜となり」
「京ことばに馴れる底倉」
(※痔の散歩道(こちら)を参照しました。)
「痔に灸治する図 底倉」(箱根七湯栞)
宿の主人が竹筒でもぐさを陰間に吹き込んでいます。
底倉温泉では宿の主人が灸や食事療法を行いました。
「江戸名所図会 堺町 葺屋町 劇場」
劇場(しばい)の賑わいが描かれています。手前に流れているのが東堀留川で「親父橋」が架かっています。
親父橋の先、右手に「よし町」とあります。
遊郭が移転し、代わりに歌舞伎の芝居小屋が立ち並ぶようになると、
同時に陰間茶屋も出来始め、芳町は江戸随一の男娼街となります。
「江戸名所百人美女 よし町」(豊国・国久)
こま絵には、親父橋の角にあった版元の地本問屋「山本屋平吉」(栄久堂)の店舗が描かれています。紅屋も兼業していました。
描かれている美女は、よし町の三味線を抱えた美女なので、陰間(男性)かもしれませんね。
「かくれ閭(ざと)」(石塚豊芥子 安政4年)
「かくれ閭」は岡場所について書かれた本で、
陰間茶屋についても、所在地一覧を記しています。
天保の改革で取り締まられましたが、芳町のほかにも増えています。
陰間茶屋と陰間たちです。男性には見えませんね。
陰間茶屋は陰間を置いているだけで、陰間と遊びたい客は、
料理屋にあがり、陰間茶屋から陰間を呼び寄せることとなります。
芳街若衆(陰間)の行粧と金剛です。
陰間茶屋から呼ばれた料理屋へ向かうところでしょう。
「絵本吾妻抉」(和泉屋源七 寛政9[1797]年)
陰間が呼ばれた芳町の料理屋が描かれています。
二階の座敷へ階段を上っているのが陰間で、
荷物をかついでいるのは陰間茶屋の金剛でしょう。
※Googleマップでは臨時休業となりました。
底倉温泉には太閤石風呂があるため、函嶺の露天風呂は「淀君の湯」と呼ばれています。
ちなみに「つたや旅館」には「寧々の湯」があります。
函嶺はいったん閉館しましたが、再開して、貸切露天風呂一つを、8組限定で利用する形態。700円。
2018年6月から改装のため休業。2019年1月現在も工事中。
2019年4月29日オープンです。1500円となりました。
関東大震災後に建てられた大正時代の病院を改装、洋館でレトロな良い雰囲気です。
玄関には「岡島」の表札がかかっています。
館内に内湯がありますが、日帰りでは貸切露天風呂の利用となります。竹林が心地よい。
源泉名「底倉温泉」 台帳番号「温泉村第106号」 湯量豊富。
影響を与える事項は、加水。
「箱根温泉案内」(明治27年7月)
明治に発行された箱根温泉案内に「私立函嶺病院」が記載されています。
当時の箱根には医療の設備も医師もなかったため、温泉宿蔦屋の館主だった沢田武治氏は、村長山口仙之助氏(富士屋ホテル創業者)と図り、
底倉村村医に医師岡島行光氏を福井県から招き、明治25(1892)年7月に武治氏が所有していた土地に函嶺医院が開設されました。
7月17日の開院式には、ベルツ博士も臨席しています。
函嶺医院には当初から温泉を引き入れ浴室を設け、温泉療養を併用していました。
函嶺医院は、初代岡島行光から三代にわたり(二代目岡島慎太氏は養子)昭和36年に廃業するまで、箱根の医療に貢献しました。
宮ノ下の地名は、熊野神社のお宮の下に開けたことに由来します。
江戸時代創業の藤屋(富士屋ホテル)は現在も残り、閉館した奈良屋旅館はNARAYA
CAFEとなっています。
宮の下駅で降りると「木賀温泉」「底倉温泉」「堂ヶ島温泉」「宮ノ下温泉」があります。
〇NARAYA CAFE 足湯 箱根町宮ノ下404-13 0460-82-1259 HP
NARAYA CAFEは2001年5月に閉館した奈良屋旅館を母体としています。
足湯は奈良屋旅館時代からの源泉を利用しています。
源泉名「宮ノ下温泉(台帳番号 温泉村 第67号)」
○宮の下浴場組合 太閤の湯 箱根町宮ノ下223 0460-82-4756 400円
源泉名「太閤湯」 台帳番号「元温泉村第28、29号 混合泉」 自然湧出 かけ流し。
お湯はイチオシ。
リニュー前の画像なので、現在はキレイになっています。
「箱根七湯図会 宮ノ下」(広重)
堂ヶ島温泉は、宮ノ下の国道1号から早川の渓谷へ下った谷底にあります。
江戸時代には5軒あった湯宿も現在は営業している宿は1軒のみです。
・晴遊閣大和屋ホテル 箱根町宮ノ下66 2013年8月31日閉館
・エスパシオ 箱根迎賓館 箱根町宮ノ下72 2024年7月2日オープン 旧対星館
「箱根七湯図会 堂かしま」(広重)
温泉場の対岸の明星ヶ岳から流れ落ちる「白糸の滝」が描かれています。
「五十三次 箱根」(通称・人物東海道)(広重)
右に囲み文字で「とうじば」、左に「白糸のたき」と記されています。
堂ヶ島温泉を描いたものとわかります。
木賀温泉は、鎌倉幕府の将軍源頼朝に仕えた木賀善司吉成が、病を癒したという伝説があります。
国道138号の早川沿です。
ベルツ博士の別荘が建てられていた場所に、ベルツ博士についての説明板があります。
(説明板)
「ベルツの別荘跡
The site of Dr. Balz villa
ドイルの医学者エルヴィン・ベルツ(1849〜1913)は、明治9年(1876)、東京医学校(東京大学医学部)に招かれて来日し、我が国医学の発展に尽し、日本近代医学の父とも呼ばれた医学者です。ベルツは箱根を愛し、富士屋ホテルや芦之湯松坂屋に来遊していましたが、明治15年頃、木賀に別荘を設け、その渓谷美を愛し、「全山中で最もよい場所」と日記に記しています。
予防医学の重要性を説いたベルツは、明治20年、大涌谷に一大温泉療養所の設立を提言しましたが、この計画は諸般の事情で実現しませんでした。しかし、明治20年、ベルツの提言によって建てられたという箱根離宮、富士屋ホテル女子従業員のために作られたヒビ・アカギレの特効薬「ベルツ水」など、箱根と深く関わりのある医学者です。
箱根町」
富士屋ホテルで働く女性の手が荒れているのをみたベルツは、「ベルツ水」を創製しました。
「美人アレシラズ」の商品名で大阪の盛香薬館から発売されました。
画像は、東京大学「健康と医学の博物館」展示の宣伝ポスターです。
<木賀湯滝温泉源泉地>
「ベルツの別荘跡」の脇に、木賀湯瀧温泉源泉地があります。
御汲湯として箱根七湯から江戸城に運ばれた7回のうち4回が木賀温泉です。
「箱根七湯図会 木賀」(広重)
箱根温泉郷の7つの温泉が描かれているうちの「木賀温泉」です。
「箱根木賀遠景」(小林清親)
早川対岸から木賀温泉を望んでいます。
強羅駅は箱根湯本駅とを繋ぐ「箱根登山電車」と、早雲山駅とを繋ぐ「箱根登山ケーブルカー」の乗換駅でもあります。
強羅温泉は宿や保養所が多いです。
大湧谷温泉引湯の保養所2湯(せせらぎ荘、まとい荘)に入湯しましたがどちらも閉館しました。
箱根町老人福祉センター(やまなみ荘)にも入ろうかと思いましたが同じ源泉2湯入れば充分と思いこちらはパスしました。
【閉館】せせらぎ荘
【閉館】まとい荘
やまなみ荘
〇四季の彩 手湯 箱根町強羅1300
強羅駅前の土産物店に、手湯があります。
源泉は大湧谷温泉引湯です。
箱根ロープウェイ「桃源台」駅の北西にある近鉄グループの宿。
奥日光高原ホテルも近鉄グループです。
2017年3月25日リニューアル。
日帰り入浴も積極的に対応していて、下足室や休憩所があります。
正面玄関とフロントは3階。正面玄関は防風仕様となっています。
湯上りサロン「すすき野」が2階にあります。
浴室は1階。
2源泉使用。
源泉名「箱根高原ホテル自家源泉」 台帳番号 元箱根第26号混合泉
湧出地:箱根町元箱根字旧札場159-148 昭和44年掘削
内湯で使用 引湯距離1110m 注入量毎分38?
加水なし、加温なし、循環ろ過なし、塩素なし
箱根レイクホテルでも同源泉を使用しています。
白百合の湯 台帳番号 元箱根第47号混合泉 平成19年掘削
露天風呂で使用
加温、循環ろ過、塩素
内湯「金時湯」「乙女湯」、露天風呂「満天の湯」、貸切風呂2つ。
内湯は湯口左右に、小さめと大きめの2つの湯舟。
塩素消毒の記載はあり、内湯は塩素臭は感じません、露天は感じます。
独自源泉かつ湯づかい良く、満足いく湯でした。
「五十三次名所図会 十一 はこね山中夜行の図」(広重)
「竪絵東海道」と呼ばれるシリーズです。
須雲川を左手に見ながら石畳みの東坂を夜中に松明の明かりをたよりに登っていきます。
「東海道五拾三次 箱根」(通称:狂歌東海道)(広重)
山を登り切る手前の石畳を夜中に松明の明かりをたよりに登る一行です。
箱根の関所は、「明け六ツ」(午前6時)から「暮れ六ツ」(午後6時)が開門時間だったので、
早朝の開門一番に間に合うように夜中に駕籠に乗っての箱根越えでしょう。
狂歌「ことわざに雲ともいへる人なれやかゝる山路を夜も越ゆく」
「東海道五拾三次之内 箱根 湖水図」(広重)
芦ノ湖畔には箱根権現社、遠くには富士山が描かれています。
岩肌が露出した険しい二子山の間の細く急な権現坂をほぼ一列互い違いになって下ってくる大名行列が見えます。
2人だけが少し高い位置に描かれているので馬に乗っているのでしょうか。2人は合羽を纏っているように見えます。
菅笠がこちらを向いているので風に吹かれながら坂を下っているのでしょう。
最初の日本橋の図では、日本橋を渡って来る大名行列の出発が描かれています。
権現坂を下って芦ノ湖に出て湖畔を行くと箱根の関所です。
「東海道五十三次之内 箱根之図」(国貞)
国貞は広重と同じ構図(箱根神社、富士山、大名行列)で大名行列に先行して旅姿の女性を描いています。
これから「入鉄砲に出女」の取締が厳しい箱根の関所に向かうところです。
広重の絵をパクッていますが広重は怒っていないどころか、後に国貞と合作で「双筆五十三次」を出版しています。
「富士三十六景 はこねの湖すい」(広重)
シンプルに芦ノ湖と富士だけです。
「富岳三十六景 相州箱根湖水」(北斎)
芦ノ湖畔には箱根権現社、遠くには富士山が描かれています。
東海道は描かれていませんが広重と同じ構図です。
「東海道箱根山中図」(五雲亭貞秀)
権現坂から、権現社の一の鳥居前、賽の河原前を行く将軍徳川家茂の上洛を連想させる様子が描かれています。
貴人は大きな傘がさされた駕籠に乗っているようです。
(将軍家は描いてはいけないから頼朝公を描いた扱いでしょうけれども)。
「東海名所改正五十三驛 十二 三しま迄三リ二十八丁 箱根 山上の湖水」(三代広重)
明治8年の出版です。箱根の関所は明治2年に廃止されています。
婦人は洋傘を持っています。石畳を上がる料理を持っている女中はどこへいくのでしょう?
峠越えの厳しさというより、富士を背景にのどかな光景に見えます。
「東海道名所風景 東海道 箱根」(歌川芳盛)
将軍徳川家茂を連想させる騎馬の貴人の行列を、箱根関所の役人が土下座して迎えています。