○ 伊香保案内
○ 伊香保温泉 黄金の湯/白銀の湯
○ 伊香保温泉ビジターセンター
○ 峠の公園 伊香保電気軌道
○ 旧伊香保御用邸
「伊香保は好い處だ。山も好ければ水も亦わるくない。
温泉は殊に他に比して非常にすぐれてゐる。
大正6年3月 田山花袋」
「伊香保案内」(田山花袋 日本温泉協会代理部 昭和5年)より抜粋

○徳冨蘆花「春の山から」
「湯良し、宿良し、眺望よし。私はすっかり伊香保に惚れました。」
〜全く伊香保に惚れました。〜私は伊香保がしみじみ好きになりました。」
昭和23年より昭和34年まで温泉の増量を目的として1号から6号までの温泉掘削が行われました。
4号・6号が動力揚湯、3号は温泉水位の調査井、1号・2号・5号が自噴泉です。
間もなくして旧来の自然湧出泉は湧出量の激減と温度低下をきたし、
ほとんど使用不能となりました。
旧源泉:おはぐろの湯、旧湯、横穴源泉(上)、横穴源泉(下)
ボーリング源泉及び自然湧出旧源泉は下流の1か所に集められ、
総合湯(本線)として自然流下によって温泉街に引湯されています。
(「伊香保温泉の伝統的分湯と引湯による化学成分の変化」小暮敬 平成元年1月 を参照した)
「白銀の湯」は、「黄金の湯」の湯量不足を解消するために、1996年に開発されました。
伊香保温泉ビジターセンターの正面から入ったところが2階で、伊香保温泉資料館があります。
小間口の展示など、興味深いものが展示されています。
石段街から離れているので、利用する人は少なそうではあります。
<伊香保葉凪>
伊香保温泉の温泉むすめは、伊香保葉凪(いかほはな)。
浴衣姿は、竹久夢二がデザインした浴衣の図案「花鳥春秋」をイラストにしています。
髪飾りは旧伊香保町の花・ツツジです。
伊香保温泉ビジターセンター(観光協会、旅館組合)の2階に、等身大パネルが設置されています。
<自動販売機>
石段街の自動販売機です。旅館内の自動販売機もデコレートされていました。
2014年4月30日開設。
伊香保電気軌道の車両が展示されています。
(説明板)
「チンチン電車
チンチン電車は、高崎及び前橋から渋川を経て伊香保に至る全線単線の路面電車で、次の三線四八kmからなっていました
■高崎線 二〇・九km(高崎駅前〜渋川長塚町)
■前橋線 一四・五km(前橋駅前〜渋川新町)
■伊香保線 一ニ・六km(渋川新町〜伊香保)
明治二三年(一八九〇年)に上毛馬車鉄道として前橋線が開業、明治ニ六年(一八九三年)には群馬馬車鉄道として高崎線が開業し、明治四三年(一九一〇年)に伊香保線が伊香保電気軌道として開業しました
その後、昭和二年(一九二七年)一〇月、東武鉄道が伊香保線も含めた三線を東京電燈から買収し、伊香保線を「東武鉄道伊香保軌道線」として営業を続けましたが、全国に普及し始めた安価で利用できる乗合バスの影響により、昭和一〇年(一九三五年)には一旦廃止が決まりました
しかし、昭和一二年(一九三七年)の日中戦争から第二次大戦にかけて戦時輸送に切り替わり旅客は増加し、伊香保へ学童疎開していた子どもたちや町民のために食料を届ける役目も担いました
戦後の混乱期も、通勤や買い物にも利用され、ピーク時の昭和二四年(一九四九年)には年間四九五万人の利用客がありましたが、バスの輸送網が整備されてくると経営は悪化し、昭和三一年(一九五六年)一二月二八日限りで惜しまれつつも廃線となました
写真撮影:田部井康修氏
伊香保軌道線
伊香保軌道線は、当時伊香保の有力者によって設立され、渋川から伊香保までの高低差五ニ四メートル、平均勾配四一・八‰(最急勾配五七・一‰)というまさに登山電車でした
伊香保方面へ登るときは、渋川の街を抜けると専用軌道になり、八七カ所に設けられた迂回等のためのカーブによって急勾配を避けるとともに、途中数カ所で「スイッチバック方式」による交換をしながら走行し、逆に伊香保から渋川までは急な下り勾配を利用し、途中はトロリーポールを架線から外し、下り坂の惰性とブレーキの制御だけで渋川の街まで戻ることができました
ここに展示してあるチンチン電車の車体は、明治時代後半から昭和時代中盤まで実際に活躍していた実物です
台車は、この区間を運行していたものではありませんが、国内の別の場所で運行していたものです
どちらも、個人的に大切に保存されていたものを渋川市に寄贈していただいたものです
寄贈者
車体デハ27 渋川市石原 平形義人様
台車ブリル21E 愛知県豊橋市 日比野浩一様」
旧伊香保御用邸は、現在は群馬大学伊香保研修所です。
(説明板)
「旧伊香保御用邸について
伊香保温泉は、明治九年に来日した東京医学校(東大医学部)内科学教授ドイツ人医師ベルツ博士が、同一三年に発表した「日本鉱泉論」により、広く世に知られるところとなり、同博士が眺望の絶妙と空気の爽快を賞賛したこの地は、明治二三年に御料地として選出され、同二六年3)に離宮が建設された。
明治四四年夏、明治天皇ほか二皇孫殿下の滞在をはじめ、多くの皇族方の来遊が続いたが、明治、大正。昭和と五十有余年続いた御用邸の歴史は昭和二十年に幕を閉じた。
昭和二六年以降、この地は文部省に移管され、現在「群馬大学伊香保研修所」置かれている。
離宮は、昭和二七年七月二十日の火災によって焼失したが、往時の面影は正面玄関に置かれた沓脱石に今も残されている。」