[五大力船]
江戸近辺の海運に用いられた海川両用の廻船は、五大力船と呼ばれます。
基本は海船造りの構造ですが、河川を航行できるように吃水が浅く船体の幅が狭くなっています。
このため、海から河口に乗り入れて市中の河岸に横付けすることができます。
海では帆を立てて帆走し、河川では帆柱を取って橋をくぐれるようにし、
棹が使用できるよう、舷側に棹走りと呼ばれる台が設けられています。
喫水が浅いので外海には行けず、主に江戸湾内の輸送に用いられました。
[木更津船]
江戸橋木更津河岸(江戸橋南詰西側)と上総国木更津湊間で貨客輸送を行なっていた五大力船は木更津船と呼ばれました。
千葉県HPの解説によると、19世紀半ばの木更津湊には、木更津船が29艘、海産物を運ぶ押送船が15艘あったといいます。
「富嶽三十六景 神奈川沖浪裏」(北斎)が描かれた場所は、
神奈川湊(本牧沖)が有力で、描かれている押送船は本牧の所属となります。
しかしながら木更津湊から見た光景との説もあります。描かれている押送船は木更津湊の所属となります。
[弁才船]
五大力船に対して、弁才船(千石船)は国内海運に使われた大型木造帆船を指します。
「富士三十六景 東都佃沖」(広重)
佃島の葦原周辺に多くの弁才船が描かれています。
上総黒戸の浦は、小櫃川の河口に位置し、現在の木更津市畔戸(くろと)に当たります。
小櫃川河口から江戸湾越しに富士を描いています。
木更津船が浅瀬に停泊しており、乗客たちが下船し、小舟に乗り換えています。
、江戸湾には、帆を張った船が行き交っています。海岸線が丸みを帯びています。
「不二三十六景 上総木更津海上」(広重 東京国立博物館蔵)
江戸から木更津に着いた木更津船が描かれています。
遠浅であるため船は接岸できず、乗客は歩いて、あるいは人に負われて浜へ向かっています。
江戸時代、江戸橋南詰西側に木更津河岸がありました。
慶長19(1614)年の大坂冬の陣に出陣した木更津の水主に対し、幕府から年貢米の輸送や江戸の木更津河岸の使用権が与えらたものです。
江戸橋を夜9時に出帆し(広重の絵本江戸土産に、夜陰に及びてこの所を出帆すとあります)、木更津へ翌未明1時頃に着きました。
歌川広重や葛飾北斎、小林一茶も木更津船を利用して木更津を訪れました。
「江戸名所図会 四日市」
本文に「同所西の方、木更津河岸と字す 房州木更津渡海往還の船ここに集ふゆゑに名とす」とあります。
「江戸切絵図」
「名所江戸百景 日本橋江戸ばし」(広重)」
日本橋の欄干の間から、江戸橋上流の木更津河岸に停泊する木更津船が見えます。
「名所江戸百景 鎧の渡し小網町」(広重)」
木更津船の舳先が画面左手に描かれています。
「絵本江戸土産 江戸橋 小網町」(広重)
江戸橋から日本橋川下流に木更津船が見えます。
橋を通過できるよう帆柱が船上に横になっているのが見えます。