ほっと湯WEB【千葉】
 
 一宮町

  ○ 上総一宮
  ○ 魚料理タカラ亭
  ○ 上総国一之宮 玉前神社
  ○ 芥川荘/芥川龍之介文学碑
  ○ 一宮海岸
  ○ ホテル一宮シーサイドオーツカ


上総一宮

 一宮の町名は上総国一之宮玉前神社の社格に由来しています。
 明治29(1896)年に房総鉄道(現:外房線)が開通し、明治30(1897)年には一ノ宮駅、
 明治32(1899)年に大原まで延伸され、一宮は別荘地として有名人の別荘が多く建ち、「東の大磯」と呼ばれました。
 2020年東京オリンピックのサーフィン競技が、一宮町の釣ヶ崎海岸で行われることになっていました。

   


魚料理タカラ亭(タカラ鮮魚駅前店) 一宮町一宮2647 0475-42-8100 9:00-20:30

 国道128号沿いのタカラ鮮魚店の駅前支店が魚料理タカラ亭です。
 上総一ノ宮駅前にあります。

     

    

<店内>

     

<メニュー>

 500円の定食が4種類(おさしみ、天ぷら、焼魚、煮魚)あります。
 800円と1000円もあるので、食べたい量で注文できます。

    

<刺身定食>

 刺身定食500円(税込)を食べました。ブリとマグロの計5切れ盛り合わせ。
 ブリが脂がのっていて美味かったです。

    

<天ぷら定食>

 再訪時(朝9時からの通し営業なので、朝食と昼食の2度利用)は、
 魚屋ですが、500円でどんなものが出るのかあえて天ぷら定食を注文しました。
 アジ、エビ、ナス、ニンジン、ピーマン、サツマイモ。
 アジの天ぷらが小さいゆえに味が濃縮されて美味かった。

   


上総国一之宮 玉前神社 一宮町一宮3048 HP

 上総一ノ宮駅前の「タカラ亭」で食事後、玉前神社に芭蕉句碑を見に訪問。

  

<芭蕉句碑>

 「叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」

(説明板)
「一宮町指定文化財(史跡)
 芭蕉の句碑  平成四年一月十四日指定
「この碑は表面中央に「たかき屋にの御製の有難を今も猶 叡慮にて賑ふたみや庭かまど はせを」と大書されている。「はせを」は芭蕉のことであり、元禄元年(一六八八年)秋冬の頃の作で、仁徳天皇の聖徳を称えたものである。左には「名にしおはゞ名取草より社宮哉 金波」を発句とする表十句を刻んである。
 背面には、上部に「無尽言」の題字、その下に百四十九句を刻み、起名庵金波の芭蕉景仰の漢文銘があり、左端に「明治紀元戊辰晩秋 催主 千丁 河野五郎兵衛」とあり、上総千町村 (現茂原市千町)の俳人起名庵金波「河野五郎兵衛」一門によって建てらたもので、書も金波といわれている。
 金波は文化元年(一八〇四)岡山の井出家に生れ、俳句を学び起名庵を創始した。嘉永五年(一八五二)千町村の河野家の養子として迎えられ明治二十年八十四歳で没した。
  平成五年八月三十一日  一宮町教育委員会」
(誤字は適宜修正しました)

    

   

<一の鳥居>

     

(説明板)
「ご祭神 玉依姫命(たまよりひめのみこと)
玉依姫命は海(龍宮)よりこの地におあがりになり、姉神・豊玉姫命より託された鵜茅葺不合命をご養育、後に命と結婚されて初代て天皇神武帝をお産みになられました。
ご祭神が私達の生活全般をお守りくださるのは勿論ですがわけても安産・子育てのお働きに象徴される女性の守護神として、また「龍宮」の意味する豊かさや喜びをもたらし男女をはじめ人のご縁を結ぶ神として古くより信仰されています
ご由緒
創始は古く詳らかではありませんが、延書式内名神大社、また上総国一ノ宮として平安時代にはすでに日本の中でも重きをおくべき神社とされていました。明治四年には国幣中社に列しています
昭和二十三年に当時皇太子であられた今上皇陛下がご参拝、同二十八年には昭和天皇、平成四年には今上陛下より幣饌料を賜わりました。
また千葉平氏上総権介平朝臣広常をはじめ、源頼朝の妻の北条政子懐妊に際して安産祈願の奉幣、徳川家康が神田十五石を寄進するなど武門の崇敬も多く厚いものでした。
ご例祭
九月十三日 ご例祭と神幸祭
大同二年(八〇七)に始まったと伝えられる当地方で最も古い浜降神事です 「上総の裸祭」といわれ、ご祭神由縁の釣が崎海岸に十二柱の神々が集われる壮大な祭儀です
裸の男達が神輿を奉じて九十九里浜を疾走します
文化財
国指定重要文化財「梅樹双雀鏡」県指定有形文化財「玉前神社社殿」などがあり県指定無形民俗文化財「上総神楽」は三百年の伝統をもち現在でも年七回奉納されています」
 

  

<白鳥井/ご神水>

 ご神水は、金気臭に金気味です。塩味はなし。分析すれば鉄鉱泉かと思います。

     

<ご神砂>

  

<二の鳥居/蜀山人書神号銅額>

 一宮町HPによると
 「蜀山人の書になる神号銅額は、境内正面の石鳥居に建立以来久しく掲げられおり、
 最近採った拓本に「文化十三子四月大田覃書」の刻文と「南畝」の印、当時の宮司家などの名が読まれた。」
 石鳥居は文化三年と刻まれており、石鳥居が建ってから現在の神号額が掲げられたこととなります。

    

<狛犬>

   

<三峯神社/玉前稲荷神社>

   

さざれ石>

 内閣総理大臣橋本龍太郎氏揮毫です。

  

<神楽殿/玉前神社上総神楽>

(説明板)
「千葉県指定無形民俗文化財 玉前神社上総神楽
 起源は、宝永七年(一七一〇)神楽殿造営の折江戸神楽の源流である土師流の神楽師に伝授されたということが、社家の記録にある
 千葉市南生実の八剣神社の記録によると、享保元年(一七一六)社殿を造営し遷宮式をした際玉前神社の神楽師を招き、二日間神楽を奉納したとあり、約三〇〇年近い歴史をもつ古格をよく保存している、太太神楽である
 かつては三十六座舞われていたようであるが今は二十五座が伝承され、氏子により上総神楽保存会が結成され、後世への継承と育成がはかられている
 毎年正月元旦、四月十三日の春季例祭、九月十日から十三日の例祭など、七度奏されている
昭和三十三年県の無形民俗文化財に指定された
  平成七年九月 一宮町教育委員会」

   

<社殿> 千葉県文化財

(説明板)
「千葉県指定文化財 玉前神社社殿 附 棟札(貞享四年三月・貞享四年八月在銘)
  平成八年三月二十二日指定
 玉前神社は、玉依姫命を祭神とする「延喜式」神名帳にも見える古社で、「三代実録」にも記録される由緒ある神社である。鎌倉時代には上総一宮としての格式を保っており、北条氏、里見氏の天正の変で罹災し、天正十年(一五八二)里見義頼により再建されたと伝える。
 現在の建物は、江戸中期の貞享四年(一六八七)に、本殿が大工棟梁大沼権兵衛、拝殿と幣殿は井上六兵衛によって竣工された。
 本殿は、桁行三間、梁間二間、一間の庇を付ける入母屋造りである。拝殿は、桁行五間、梁間二間の入母屋造りで、正面に向唐破風を付ける。幣殿は、本殿と拝殿をつなぐ建物で、桁行四間、梁間一間の規模である。全体が複合社殿(権現造)となっており、屋根は寛政十二年(一八〇〇)に現在に見られるような銅板葺に改められている。
 県内でも余り例を見ない様式を残す社殿は、社格とその歴史を今に伝えている。
  平成八年十一月 千葉県教育委員会 一宮町教育委員会」

    

<神木 いす>

(説明板)
「神木 いす
 「なんじゃもんじゃ」とも呼ばれるまんさく科いすの樹で、俗にひょんのき・蚊母樹とも言い、常緑で花も実も付ける。
 古来当社のご神木として崇められてきた。
 モンゼンイスアブラムシが葉や茎に土で袋状の巣をつくり、虫が飛び出した空き殻は昔の子ども達の笛として遊ばれていた。
  平成十一年九月 玉前神社」

   

<力石>

(説明板)
「力石
 力石は娯楽のなかった昔、祭礼の日などに、力自慢によって競われた遊び道具で、別の名を玩戯石ともいう。
 横綱太刀山(当時関脇)一行が一宮を巡業した折、八十五貫(約三一九kg)と言われるこの石を幕内力士の若さくらが軽々と持ち上げたと伝えられるもので、石表に明治三十九年の日付と若さくらを始め、石を持ち上げたと思われる数人の名が刻まれている。
  平成十一年九月  玉前神社」

    

<獲錨記念碑>

(説明板)
「獲錨記念碑
 明治の末、九十九里浜の海に沈んでいて度々漁網に被害をおよぼしていた錨が漁師の網に掛かり引き揚げられた。漁師達は玉前神社のお陰と大いに喜び、網主十一名が東郷平八郎海軍大将に篆額をいただき、その錨とともに碑を建てた。
 当時の漁は砂浜より船を押しだす地引き網漁で、現在は観光地引き網が町内数カ所で行われている。
  平成十一年九月 玉前神社」

     

<招魂殿>

 砲弾が奉納されています。
 奉納の戦利品は撤去されているところが多いので、2発も残っているのは珍しいと思います。

(説明板)
「招魂殿
 大正十二年建立。日清・日露戦争以降第二次世界大戦までの一宮出身三二五柱の戦没者をお祀りしている。例祭は四月十三日に行われている。
 右の「勇死救亜洲碑」は英霊顕彰の為昭和三十一年に建てられたもので、三二五柱の氏名を彫り、一宮藩主後裔で当時千葉県知事であった加納久朗氏の篆額がある。
  平成十一年九月 玉前神社」

     

<はだしの道>

 築山の周りをはだしで3周して祈願するはだしの道。
 築山は古墳の可能性があるようです。

  

<西南戦争紀念碑/征清紀念碑>

 はだしの道の築山に石碑が2基あります。
 左に「西南戦争紀念碑」(熾仁親王筆)、右に日清戦争の「征清紀念碑」(彰仁親王筆)。

     

<末社 十二社>

 「玉前神社末社十二神社ご由緒
  一宮町内の邑々に昔から祀られ信仰を集めていた神々が明治初年政府の命により玉前神社に合祀され十二神社として現在にいたりました
  例祭は「愛宕さん」と親しまれ、その火防せのご神徳とともに親しまれ賑わっています
  平成六年十月氏子を始めご崇敬の方々のお力により社殿のご改修、神輿のご修理が見事に行われました(以下略)」

   

<玉前神社槇の群生> 一宮町文化財(天然記念物)

(説明板)
「一宮町指定文化財(天然記念物) 玉前神社槇の群生
  昭和六十三年七月十四日指定
 当神社の境内に槇の群生がある。槇はマキ科の常緑高木で、九十九里海岸平野の気候風土に適し、当地域の特産である。
 境内には、槇を始め数種の樹木がみられるが、槇は本殿裏から西側へかけて大小二十数樹が群生し、他の神社では見られない光景である。樹高凡そ二十メートル、幹囲三メートル前後の巨木も十数樹を数え、鬱蒼として壮観であり、特に境内東側の槇は最も大きく、樹高二十メートル、幹囲三・二六メートルに達する。種類は県木と同種のイヌマキである。
  平成五年八月三十一日 一宮町教育委員会」

  

<平廣常顕彰碑>

(説明板)
「平廣常顕彰碑
 町内の高藤山城が居城と伝えられている上総権介平朝臣廣常は、三代に亘り上総國を支配した武将である。源頼朝が鎌倉幕府を興す際の功労者の一人であったが、謀反の企てがあると頼朝が疑心を懐き、かつまた、生来の傲慢さも不興をかって寿永二年(一一八三)十二月に謀殺された。しかし、実のところは同年七月に廣常は当社に鎧一領とこの石碑に記された書状を添えて、頼朝の心願と東国太平を祈願していたのだった。
 石碑は廣常の玉前神社への篤い信仰を顕彰したもので、表に当社への祈願文を、裏には廣常の行跡が記されている。
 この文書や鎧は戦国期の争乱で焼失した。
  平成十一年九月  玉前神社」

   


〇寿屋本家 一宮町一宮2987 0475-36-3989

 門前に風格のある明治時代の中期に建てられた寿屋本家(すやほんけ)があります。
 たまたまの休みでした。

  


芥川荘(国指定登録文化財) 一宮町一宮9241一宮館敷地内

 一宮館の駐車場の奥の庭に、芥川荘があります。

  

(芥川荘説明)
「一宮川河口に位置する旅館・一宮館の離れで、大正3年(1914)と大正5年(1961)に芥川龍之介がこの離れに滞在したことから、この名がつけられた。芥川は滞在中にこの離れから、後に妻となる塚本文に長い求婚の手紙を送り、一宮での思い出を「微笑」「海のほとり」「玄鶴山房」「蜃気楼」などの作品に登場させている。建物は、明治30年(1897)の建築。茅葺寄棟造の木造平屋建てで、主屋と次の間2室の3方に縁側を回らし、縁側の一端には洗面所を設けており、当地方の伝統的な民家建築技法で建てられ、周囲の松林の閑静な雰囲気と相まって良好な景観となっている。」
(芥川荘の説明は、文化庁、千葉県HPなどにありますが、一宮観光協会サイトが詳しいのでそちらを引用します) 

(モニュメント文)
「国登録有形文化財 芥川荘
  平成十三年(二〇〇一)十月十二日登録
明治末期から昭和初期にかけて一宮は「東の大磯」とよばれ、川沿いや海岸付近に政財界人や軍人、芸術家などの別荘が百軒近く立ち並び、避暑地として栄えていました。温暖な気候や鉄道の開通、海水浴場の開設など条件が整った結果、今につながる観光地の基礎が作られていったのです。
 その時代の中、大正五年(一九一六)八月十七日〜九月二日にかけて芥 川龍之介は友人の久米正雄と一宮館の離れに滞在しました。当時の芥川は東大英文科を卒業後、同翌年二月に小説「鼻」を発表して夏目漱石の激賞を受け、文壇の注目を浴びて小説家として歩み始めたところでした。滞在中は海水浴や読書を楽しみ、後に妻となる恋人の塚本文には長い求婚の手紙を送っています。当時の思い出は、「微笑」「海のほとり」「蜃気楼」「玄鶴山房」などの作品に登場しています。
 この離れは明治三十年代に建てられ、芥川龍之介が滞在したことにちなんで「芥川荘」とよばれるようになりました。全体の構造は、木造平屋建ての寄棟造、屋根は茅葺きで、主室、次の間の三方に縁を回らし、その一端に洗面所が付いています。建物の大部分は当時の状態で保存管理され、周りを取り囲む松林と合わせて避暑地の風情を今に伝えています。
  平成十五年八月 一宮町教育委員会」

    

    

<芥川龍之介文学碑>

 芥川龍之介の塚本文(後の芥川夫人)あての一宮からの手紙を陶板に記した
 プレートを埋め込んだ御影石の碑です。
 正面「芥川龍之介文学碑」、裏面に由縁が刻まれています。平成3年5月建立。

    

(碑文)
「大正五年 塚本文(後の芥川夫人)宛
  八月廿五日朝 一の宮町海岸一宮館にて
文ちゃん。
僕は まだこの海岸で 本を読んだり原稿を書いたりして暮らしてゐます。何時頃 うちへかへるか それはまだ はっきりわかりません。が、うちへ帰ってからは 文ちゃんに かう云う手紙を書く機会がなくなると思ひますから 奮発して 一つ長いのを書きます
ひるまは 仕事をしたり泳いだりしてゐるので、忘れてゐますが 夕方や夜は 東京がこひしくなります。さうして 早く又 あのあかりの多い にぎやかな通りを歩きたいと思ひます。しかし、東京がこひしくなると云ふのは、東京の町がこひしくなるばかりではありません。東京にゐる人もこひしくなるのです。さう云う時に 僕は時々 文ちゃんの事を思ひ出します。文ちゃんを貰ひたいと云ふ事を、僕が兄さんに話してから 何年になるでう。(こんな事を 文ちゃんにあげる手紙に書いていいものかどうか知りません。)
貰ひたい理由は たつた一つあるきりです。さうして その理由は僕は 文ちゃんが好きだと云ふ事です。勿論昔から好きでした。今でも 好きです。その外に何も理由はありません。僕は 世間の人のやうに結婚と云ふ事と いろいろな生活上の便宜と云ふ事とを一つにして考へる事の出来ない人間です。ですから これだけの理由で 兄さんに 文ちゃんを頂けるなら頂きたいと云ひました。さうして それは頂くとも頂かないとも 文ちゃんの考へ一つで きまらなければならないと云ひました。
僕は 今でも 兄さんに話した時の通りな心もちでゐます。世間では 僕の考へ方を 何と笑つてもかまひません。世間の人間は いい加減な見合ひと いい加減な身元しらべとで 造作なく結婚してゐます。僕には それが出来ません。その出来ない点で 世間より僕の方が 余程高等だとうぬぼれてゐます。
兎に角 僕が文ちゃんを貰ふか貰はないかと云ふ事は全く文ちゃん次第で きまる事なのです。僕から云へば 勿論 承知して頂きたいのには違ひありません。しかし 一分一厘でも 文ちゃんの考へを 無理に 脅かすやうな事があっては文ちゃん自身にも 文ちゃんのお母さまやお兄さんにも 僕がすまない事になります。ですから 文ちゃんは 完く自由に 自分でどっちともきめなければいけません。万一 後悔するやうな事があっては 大へんです。
僕のやってゐる商売は 今の日本で 一番金にならない商売です。その上 僕自身も 碌に金はありません。ですから生活の程度から云へば 何時までたっても知れたものです。それから 僕は からだも あたまもあまり上等に出来上がってゐません。(あたまの方は それでも まだ少しは自信があります。)うちには 父、母、叔母と、としよりが三人ゐます。それでよければ来て下さい。僕には 文ちゃん自身の口から かざり気のない返事を聞きたいと思つてゐます。繰返して書きますが、理由は一つしかありません。僕は文ちゃんが好きです。それでよければ来て下さい。
この手紙は 人に見せても見せなくても 文ちゃんの自由です。
一の宮は もう秋らしくなりました。木槿の葉がしぼみかかったり 弘法麦の穂がこげ茶色になつたりしてゐるのを見ると 心細い気がします。僕がここにゐる間に 書く暇と書く気とがあったら もう一度手紙を書いて下さい。「暇と気とがあったら」です。書かなくつてもかまひません。が 書いて頂ければ 尚 うれしいだらうと思ひます。
これでやめます 皆さまによろしく  芥川龍之介」

   

<小高倉之助歌碑>

 地元の農民歌人。鍬の形をした歌碑で、碑は斜めになっています。平成3年12月建立。

   

○一宮館 一宮町一宮9241 0475-42-2127 HP

 芥川荘のある庭側の一宮館です。

  

 芥川荘のある一宮舘の裏手から、表にまわってみました。

     


一宮海岸/芥川龍之介 愛の碑 一宮町船頭給2512

 一宮海岸広場(国民宿舎一宮荘跡地)に「芥川龍之介 愛の碑」があります。
 駐車場から見たものの下調べ不十分で芥川龍之介の碑とは気づかず、写真は取り損ねました。
 画像は一宮海岸です。

    


ホテル一宮シーサイドオーツカ 一宮町一宮10000 0475-42-6411  12:00-18:00 HP

 じゃらんの期間限定ポイントが付いたので、加水、循環ろ過、塩素を承知で行ってきました。
 かなり加水しているだろうことは承知の上でしたが、さすがに4倍希釈には少々がっかりしました。
 さらにローリー運搬湯だと掲示を見て少々がっかりしましたが、良い湯でした。

<大塚商会の運営宿>

 大塚商会が企業支援の一環として運営しているホテルです。

     

<ローリー運搬湯>

 駐車場にある施設が湧出地だと勘違いしました。
 露天風呂の脇に貯湯タンクがありました。

   

<コロナ対策>

 入口で自動検温後、手指障毒。フロントで受付。丁寧な対応です。

    

    

<分析書>(平成23年7月28日)

 かん水を利用した温泉入浴施設です。
 源泉名「一宮温泉」含よう素-ナトリウム-塩化物強塩冷鉱泉(高張性弱アルカリ性低温泉)
 湧出地:一宮町一宮10226
  地図を見ると、ホテルから1.8kmほど北で、伊勢化学工業ビルが建っています。
 泉温:31.5℃ 成分総計:33.052g ヨウ素イオン:106.5mg 炭酸水素イオン:790.6mg

    

<影響を与える項目>

 「温泉1に対して地下水を3の割合で希釈しています。加温、循環ろ過、塩素。」
 その他として「源泉湧出地よりタンクローリーにて随時運搬して供給しています。」

   

<脱衣所>

 広い脱衣所です。

<内湯>

 内湯は、変則7角形の大浴槽が1つ。
 加水、循環ろ過ですが、グリーンの温泉。
 加水のためでしょう、高張泉に至っていない塩味です。
 ヨード臭だか臭素臭がします。
 採光がふんだんで、とても明るい浴室です。
 サウナは、コロナ対策で使用中止でした。

 パンフレットより抜粋
  

<露天風呂>

 露天には、小さな十和田石のヒノキ枠の浴槽が1つあります。
 庭園があり雰囲気の良い露天エリアです。
 混濁気味のグリーンの湯だったので、十和田石の効果で黄色が緑色になっているのかと思い、
 手桶で湯をすくってみると、黄色ではなくグリーンでした。

 パンフレットより抜粋
    

<湯あがり処>

 ウォーターサーバーがあり、煎茶・麦茶・水がサーブされています。

  

<展望台>

 屋上に展望台があります。

     

    

<感想>

 ローリー湯かつ4倍希釈ですが、かん水の良さは保たれていて、良い湯にのんびりできました。
 希釈なしの源泉に触れてみたいものです。
 食事は上総一ノ宮駅前の「タカラ亭」で食べたので、ここではランチは採りませんでしたが、
 ランチ付入浴が人気のようです。


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